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パラテコンドー日本代表・田中光哉選手登場!

田中光哉選手、何としてもパラリンピックで活躍してほしい。

あなたがロールモデルになる事、それはレガシーという鉱脈を探し当てることだ!!

フラワーカンパニーズの『深夜高速』。パラテコンドー日本代表・田中光哉選手は、練習でよくボコボコにされたりする日々の中で、この曲から力を貰っているという。「生きてて良かった、そんな夜を探してる」というフレーズがあって、自分も報われるために頑張っているということを思い出すという。田中選手は言った。「障がいのある子供達にとって、モデルになれるような選手になりたいと思っています。」と。

田中選手は最初からパラスポーツをやってきたわけではない。幼稚園から剣道を、その後はサッカーにのめり込む。中学、高校でもサッカーを続け、大学は高校サッカーの監督になりたいと思って進学した。

そんな田中選手の転機は、オーストラリアへの留学。街でよく障がいのある人を見かけ、障がいのある自分への眼差しに、日本との違いを感じたという。そんな中で自分自身の障がいについて深く考えるようになり、障がい者スポーツの分野に興味を持ち、東京都障害者スポーツ協会に就職する。そこで東京パラリンピックに向けて、パラスポーツの選手発掘事業に関わるうちに、何か自分も競技者として関われるものはないか探して、辿り着いたのがパラテコンドーなのだ。

世界の強豪国は、パラテコンドーの選手がたくさんいて、勝ち抜いた選手がパラリンピックに出場する。日本は、パラテコンドーをやれる人を発掘するところから始める。この差は大きい。

パラテコンドーに限らず、パラスポーツの普及の差は、田中選手がオーストラリアで感じた、日本に比べて街中で見る障がいを持った人が多いことや、眼差しの違いに理由は求められると思う。まだまだ日本ではパラスポーツは、障がいを持った人の中で環境や条件が整った人がやる特別なことなのだ。

アスリートには勇気や感動を与える力がある。パラスポーツには、加えて社会を変える力がある。田中選手の探し物、メダルをとって障がいをもった子供達のモデルになることを、是が非でも達成して欲しい。それは金や銀では終わらない変革という大きなレガシーが下に眠る鉱脈だと思う。 

                    モリタニブンペイ


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