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プロ野球のレジェンド山本昌さん登場!

まさに中年の星!山本昌さんは我々も人生のお手本にしたいスポーツヒーローだった!!

50歳まで現役を続けたプロ野球界のレジェンド山本昌さんは200勝を達成した時、当時の中日・落合博満監督から「昌は自分で辞められる投手になった。」と言われたという。自分で辞め時を決められる選手が何人いるだろう。これは落合監督から山本昌投手へのリスペクトを込めた言葉であると同時に、山本昌という投手が勝ち得た凄い栄誉だ。

「私ね、小中補欠でした。背番号1にすごく憧れがあった」という山本昌さんのプロ野球人生は小中学校同様、地味だ。入団から4年は1軍での勝ち星はなし。防護率も10点代後半。この数字だけ見たら、後に200勝投手になりますと言われてもにわかには信じがたい。そう山本昌さんは文字通り「大器晩成」だったのだ。

山本昌さん大投手への第一歩は、ご自身「期待されて送り出されたわけではない」というアメリカ留学。「頭がやわらかくなるし、いろんなことに挑戦するようになりましたね。日本の野球の至れり尽くせり、全部コーチがお膳立てしてやってくれる。マイナーは練習も飯も自分でなんとかしないといけない。そういうのをアメリカで経験できたのは大きいですね。」後に山本昌投手の代名詞になるスクリューボールもアメリカでの創意工夫から体得した。そしてアイク生原さんからは、基本が大切ということを今一度徹底的に叩き込まれた。

監督との出会いも大きかった。帰国後、山本昌さんを鍛えたのは若かりし頃の星野仙一監督。山本昌さんは星野監督に叱られながらでも必死に食らいついていく。「叱る選手にはチャンスくれて、叱られてほっとしている自分がいた。」という。思い返してもタフだったようで、「年が若い時代で良かった」という言葉に実感が籠っていた。そしてもう一人、落合博満監督。「私が一番助かったのは晩年ですけど、落合さんは同じ力だったらベテラン選手の方が試合を勝つ術を知っていると使ってくれた。普通は逆なですよ。同じような力なら若い選手にチャンスを与えるんですけど、今勝てるのはどっちだと考えてくれて、長くやれる一つの要因を作ってくれたのは落合監督だったんです。」なるほど、確かに阪神や楽天で血の入れ替えを大胆に実行した星野さんのような人が40過ぎて監督だったら、山本昌さんも肩たたきにあっていたかもしれない。

山本昌さんの特長的なことは、史上最年長42歳11か月で200勝に到達しただけではない。41歳でノーヒットノーラン達成や43歳で自己最速143キロを記録した事。40歳以降に46勝を挙げたことなど、40歳を過ぎてなお進化し続けたことだ。

イチロー選手はじめ数多くの一流アスリートが信奉する鳥取のワールドウィングジム小山裕史さんとの出会いも大きかったという。小山さんのアドバイスも参考に、毎年フォームを修正し続けた。「毎年何か新しいことにチャレンジできた。自分に可能性を感じてやれた。もしかしたら、今年キャリアハイ出るんじゃないかと40後半になっても思えた。」人間、地位もでき、いろんなものが固まってくるベテランは、なかなか新しいことにチャレンジできない。それを可能にしたのは何なのか「もっと上があるなと思って。逆にいうとずっとエリートでやってこなかったから、泥臭く、まだまだいけるっているところでやれたのかなと思う。」

エリートではなかった。創意工夫と基本を大切に。そして、変化を恐れず変えられる勇気。どれもレベルこそ違えども、我々一般人でも仕事や生活の参考になることばかりだ。山本昌さんが「中年の星」と言われて、同性代から圧倒的に支持された理由が良く分かった。

                    モリタニブンペイ 

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