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みなとみらいKINGDOMで公開収録

田中史朗選手はラグビーを体現するスポーツヒーローだ!

2015年と2019年、2回のラグビーワールドカップを経て、ラグビーは日本でも人気スポーツの仲間入りを果たした。全ては日本が2015年、当時世界ランキング3位の南アフリカを終了間際の逆転トライで下したスポーツ史上最大の番狂わせから始まった。その南アフリカ戦でマン・オブ・ザ・マッチに輝き、日本中を巻き込んだラグビー人気爆発の中心メンバーとなったのが本日のゲスト、田中史朗選手だ。

思えば名将エディー・ジョーンズはそれまでワールドカップで1勝しかしたことのない日本に変革をもたらした。一番大きな変化はマインドだと田中選手は言う。「海外の人って凄い大きいとか身体能力高いっていうので、日本人には難しいっていう、そのマインドを変えてくれました。絶対に南アフリカだから、ニュージーランドだから勝てないじゃなくて、俺たちはそれだけのことをやれば絶対に勝てる。」と。南アフリカとの対戦が決まったその日から、エディーは「ビートザボックス!(南アフリカをやっつけろ。)」と言い続けた。

エディーの意識改革に、日本人選手として初めてスーパーラグビーに参戦し、優勝も経験した田中選手自身は抵抗なく、すぐ順応した。しかし、まだチームには、プロになり切れていない、甘さが残る選手もいた。そんな選手に、田中選手はカツを入れた。当時、チームメイトに厳しい要求をする田中選手はミニ・エディーと呼ばれていた。それは「負けるくらいだったらもう止めた方がいいんじゃないか」という田中選手の哲学に沿うものだった。

その実践として、奥様にはスーパーラグビー挑戦前に覚悟を伝えた。「命かけてやるから、もし俺が死んだら俺のこと気にせずまた次の新しい人を見つけてくれよっていう話をしましたね。」奥さんはその時、「全力でやってくれていいけど、死ぬっていうのは言わないでっていう風に泣いてくれましたね。」一面、田中選手がいかに愛妻家かということを示すエピソードだが、それほど田中選手はフルコンタクトのスポーツ、ラグビーと真剣に向き合ってきたということだろう。

そんな田中選手へのご褒美が2019年ワールドカップ後、東京・丸の内で開催されたワンチームパレードだった。5万人もの人が沿道を埋め尽くしたパレード、歩き出す前から田中選手は泣いていた。「2011年の僕らが空港に帰って来た時、記者の方だけいて、後ファンの方っていうのは本当いなくて、これは自分たちの責任だって思っているのを知っているので、それから8年ですかね。でこれだけのファンの方が集まっていただいて、今まで人生の中で一番人が集まった時かなと思いますね、僕の中で。」

小さな体でも大きな選手に真っ向から立ち向かう勇気、チームを思い嫌われ役もいとわない。人懐っこい笑顔と泣き上戸。田中史朗選手こそがラグビーというスポーツを体現するスポーツヒーローだと思った。

                モリタニブンペイ

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