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スポーツジャーナリスト・モリタニブンペイが、旬なアスリートにインタビューするスポーツドキュメンタリー。豊富なスポーツ取材経験を生かし、分かりやすい言葉でスポーツの本質に迫ります。ケガや挫折、様々な苦難をものともせず挑戦を続け、夢を追い続けるスポーツヒーローの姿を通じて、 リスナーの皆さんに元気と勇気をお届けします。
アスリート出演情報は番組ツイッターで @HeroesLandmark アスリートへの質問は lsh@fmyokohama.jp

Hero’s Music

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モリタニブンペイ

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安藤咲良

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『 コロンブス /  Mrs. GREEN APPLE  』

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専修大学バレーボール部・甲斐優斗選手のHero's Musicは、Mrs. GREEN APPLEの『コロンブス』。「凄くテンポも良くて試合前に聴くと、テンションが上がるというか、モチベーションも凄く上がるので、試合前だったり朝起きた時に音量マックスでかけたりとかして目が覚めるようにしています。」

最後の1本を託されて決め切れる、真のエースへ!甲斐優斗選手が亡き父へ最高の報告をする日が待ち遠しい!!

「20歳という若さでパリを経験できたのは凄い財産。その上でロサンゼルスのエース候補と期待してもらえるのは嬉しい。」専修大学バレーボール部・甲斐優斗選手は常に柔和な表情で落ち着いた話しぶりで、非常にご自分の考えが整理されている。コート上のプレー同様、20歳とは思えないクレバーさを感じる。

大会前、最強日本と謳われたパリオリンピックの日本代表が目標としていたメダルには届かなかった理由も冷静に分析してくれた。「足りなかったものは、1点を獲り切れなかったこと。」それはとりも直さず、エース候補、甲斐選手本人に与えられた課題でもある。

「バレーボールのエースとは、最後の1点を託してもらえる選手。最後、誰もが、自分のチームメイト全員はもちろん、相手チーム、さらに会場にいる人、テレビで見ている人、全ての人がここに上がって来るだろうと思っている選手。そんな選手になって、なおかつその最後の1ポイントを決め切れる選手になりたい。」候補で終わるつもりは毛頭ない。何故なら、甲斐選手は高みを目指せと常に教えられて、宿命のようにそれを受け入れて育ってきたからだ。

父は元実業団の9人制バレーボール選手で甲斐選手がバレーボールを始めた延岡南バレーボールクラブの監督。お父さんの指導は厳しく、家でも「監督」としか読んだ記憶がないと言うほど。「家庭内でも基本バレーボールの話ばっかりで、会話の8割ぐらいを占めていた。」バレーボール一家とは甲斐家のような家庭を言うのだろう。

残念ながらお父さんは甲斐選手の日本代表での活躍を見ることなく、甲斐選手が高校2年生の時にお亡くなりになった。お父さんを高校時代に指導し、同様に甲斐選手の恩師である宮崎県立日南振徳高校の鍋倉雄次郎監督は言う。「お父様がお亡くなりになる時に、優斗は日本を代表する選手になるっていう風にお父さんに誓ったんだと思う」と。

「やるからには勝てと常に父は言っていたので、どうせやるんだったら勝ちたいですし、結果っていうのがひとつ報告したい部分。」と甲斐選手。4年後、最高の報告を天国のお父さんへという結果を報告をする日、それは甲斐選手がエースになって日の丸を掲げてくれる日だ。頑張れ、甲斐優斗選手!!

          モリタニブンペイ

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来週のゲスト

奥山理々嘉選手(日立ハイテククーガーズ)

奥山理々嘉選手は横須賀市出身の24歳。

小学3年生の時にミニバスケットボールを始め、

中学は地元の横須賀市立坂本中学校へ進学。

東京・目黒の八雲学園高等学校へ進学後、2年生の時のウィンターカップ3回戦で当時の1試合最多得点51点を大きく更新する、62点を記録します。

高校3年生の時に3人制を始め、アジア競技大会に出場。

それまで3人制のプレー経験がなく、ぶっつけ本番ながら銀メダルを獲得しました。

高校卒業後、JX-ENEOSサンフラワーズに加入。

2023年、ENEOSを退団し、日立ハイテククーガーズに移籍しました。

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