最後の1本を託されて決め切れる、真のエースへ!甲斐優斗選手が亡き父へ最高の報告をする日が待ち遠しい!!
「20歳という若さでパリを経験できたのは凄い財産。その上でロサンゼルスのエース候補と期待してもらえるのは嬉しい。」専修大学バレーボール部・甲斐優斗選手は常に柔和な表情で落ち着いた話しぶりで、非常にご自分の考えが整理されている。コート上のプレー同様、20歳とは思えないクレバーさを感じる。
大会前、最強日本と謳われたパリオリンピックの日本代表が目標としていたメダルには届かなかった理由も冷静に分析してくれた。「足りなかったものは、1点を獲り切れなかったこと。」それはとりも直さず、エース候補、甲斐選手本人に与えられた課題でもある。
「バレーボールのエースとは、最後の1点を託してもらえる選手。最後、誰もが、自分のチームメイト全員はもちろん、相手チーム、さらに会場にいる人、テレビで見ている人、全ての人がここに上がって来るだろうと思っている選手。そんな選手になって、なおかつその最後の1ポイントを決め切れる選手になりたい。」候補で終わるつもりは毛頭ない。何故なら、甲斐選手は高みを目指せと常に教えられて、宿命のようにそれを受け入れて育ってきたからだ。
父は元実業団の9人制バレーボール選手で甲斐選手がバレーボールを始めた延岡南バレーボールクラブの監督。お父さんの指導は厳しく、家でも「監督」としか読んだ記憶がないと言うほど。「家庭内でも基本バレーボールの話ばっかりで、会話の8割ぐらいを占めていた。」バレーボール一家とは甲斐家のような家庭を言うのだろう。
残念ながらお父さんは甲斐選手の日本代表での活躍を見ることなく、甲斐選手が高校2年生の時にお亡くなりになった。お父さんを高校時代に指導し、同様に甲斐選手の恩師である宮崎県立日南振徳高校の鍋倉雄次郎監督は言う。「お父様がお亡くなりになる時に、優斗は日本を代表する選手になるっていう風にお父さんに誓ったんだと思う」と。
「やるからには勝てと常に父は言っていたので、どうせやるんだったら勝ちたいですし、結果っていうのがひとつ報告したい部分。」と甲斐選手。4年後、最高の報告を天国のお父さんへという結果を報告をする日、それは甲斐選手がエースになって日の丸を掲げてくれる日だ。頑張れ、甲斐優斗選手!!
モリタニブンペイ